2013年5月30日木曜日

私の仕事は誰のため?菜の花が蒔いた本当の種

料理を作って商売をして30年になる。

私の仕事は誰のためだろう?

● お金を稼いで自分や家族が暮らしていくため

● 美味しいものを作ってお客様に喜んでもらうため

● 美味しいものを食べている姿を見たり、スタッフとそんなお客様楽しい時間を共有するため

● 食材や料理を通して、文化の伝承や食環境の保全に寄与するため

ざっと思い当たるところを挙げてみるが・・。

  

私は高校を卒業後の就職先を東京のホテルを選んだ。友人はみな大学進学の進学校の公立の普通高校に入ったが、入学後に選んだ進路は就職だった。

家業であるレストランを継ごうと思い、それも単純に山とある古い食器が勿体ないというのが発端だったと微かに覚えている。

ホテルの入社試験の面接の際、「祖父の料理に対する情熱が..」と口から出てしまったように、私が料理を作る意味はモノに対する思い入れや人の思いを繋いだり伝えたりするための表現方法のような気がする。

それが、何故料理で無くてはならないか?というのはその後の経験値によるが、
究極誰のためか?と問われればそれは単に自己実現や自己満足かというと、きっとそうでは無い。

 

去る5月26日(日曜日)に菜の花まつりという催しが妙高山麓都市農村交流施設とその周辺で行われた。妙高市の主催、妙高市グリーンツーリズム推進協議会の企画、運営ということで、私がメイン会場のレストランを任せられた。

 

「妙高はなまるレストラン」

…村シェフによる地元の食材を利用した特別料理、というふれこみで。

▼当日のメニュー

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当日頂戴したアンケートのご意見は様々。味やサービスに好評を沢山いただいた中、メイン料理が遅いとのご意見も。お待たせしたお客様には申し訳なくプロとしては問答無用。しかし状況を考えて内心は寛容、かつ次の仕事に活かすのみ。

 

料理は誰のためか

 

例えば今回のテーマから考えたメニューは、第一に菜の花を楽しんでいただこう。そして大洞原の食材を使おう。妙高の食材を知っていただこう。・・・そして集めた素材は多種多様。

菜の花、菜種油、牛乳、じゃがいも、米粉、華麗舞(米)。

地元産がすべて正攻法でストライクなものばかりで無い。さらにコストがかかる。提供されたものであっても仕込み時間は一般の方が想像もつかないほど係ることも少なくない。残った材料は回せない。人件費もかけられず、リスクが大きすぎる仕事。

イベントの仕事は目的地を見失わず、目標をクリアし、いかにプロとしての提案ができるかではないかと思う。そしてイベントに限らず、お客様同様に働くスタッフに何を残せるかではないか。

私は私ならではのメッセージを皆さんにお渡ししたつもりだ。それはいつどこで何によって誰のために発芽するかは解らない。

 

http://farm6.staticflickr.com/5334/8885046445_650e42b5d3_n.jpg ●前日。開ききってしまった一面の油搾用の菜の花畑から蕾の多いものをピックアップ。

http://farm8.staticflickr.com/7338/8885680660_700b23e9b0_n.jpg ●「みん菜の油」昨年搾った花畑の油。味はナッツ系、癖も個性も弱め。これをたっぷり使う。

http://farm4.staticflickr.com/3709/8885049791_8708fd57ac_n.jpg ●地元産の豆腐の水を絞り、私が起こした麹の塩麹でマリネしてオードブルに。

http://farm8.staticflickr.com/7421/8885676908_3cb2ff6b84_n.jpghttp://farm8.staticflickr.com/7378/8885675320_85ec66a94a_n.jpg ●手作りのチキンベースの白ソーセージ。前日に収穫した都市農村交流施設のセージを刻んで入れてある。無添加。

http://farm4.staticflickr.com/3788/8885140157_3bfbb98392_n.jpghttp://farm9.staticflickr.com/8554/8885672150_2160ec6606_n.jpg ●大洞原産のじゃがいも。メニューを書いた後に渡された、この品質に下ごしらえに手こずる。妙高市産の米粉とニョッキに。

http://farm4.staticflickr.com/3742/8885965188_f72ee29f15_n.jpg ●華麗舞はピラフに。地元のハンターより譲ってもらったイノシシ肉でカレーソースを仕込む。

http://farm6.staticflickr.com/5344/8885054693_7ed4ba562a_n.jpg ●打ち合わせから、チケット作り、準備や配膳まで協力してくれた大勢の主催スタッフ。お疲れ様でした。

2013年5月12日日曜日

成功とはミスをしない事とは違う。を山菜料理で例えると

美味しい料理は、美味しい物を作ろうと思ってこそ生まれて来るものだと思っている。

「まずいと言われないように」に固執すると、冒険することもなく望まれるがままのメニューを作り、しょっぱいですか?甘いですか?をその都度聞いて味付けすることにもなろう。

そして偶然の感動を呼び寄せる事もない。

 

料理を作るかたに分かって貰いたいのは、自分で枠を作ってしまわないで欲しいということ。

鯖なら味噌煮でしょう、新しければ〆鯖でしょう。フキノトウなら天ぷらととりあえずふきみそでしょう。山菜は郷土料理で和食でしょう、等々。

そもそも和食という枠なんて誰が決めたの?それくらい思って欲しい。

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(あけびづる、クレソン、ワラビを使ったサラダ/ウルイを添えた木の芽ソースの魚料理/コゴミとウドを組み合わせたパスタ:2013年5月12日の料理教室にて)

今日のワークショップで、「ウドってこんな食べ方が出来るんだ!?」と感心したり、「ワラビにドレッシングをかけるのって意外だった」。などと感想を持たれた方はいなかっただろう。

感想があるとすれば「素材の味に気づいた」や、「私は今度こうやってアレンジしてみたい」。

つまり、+のインスピレーション。それは、まずいと言われないようにと作った料理には無い大切な”伝達”(人から素材へ、素材から人へ)である。醤油味だと思い込んでいたワラビ料理のことなどもはや忘れてしまっている。

 

作り手は成功へのトライができる一方で、食べる側にはそれが薄い。今日は寿司が食べたい、今日はとんかつが食べたい。という具合で具体的かつ枠を超えにくく、ミスをせずその目標を達成したいと考えるものだ。

 

素材の持つ潜在能力、作り手の表現力は「定番」と呼ばれる料理の枠などなんなく飛び越えてしまう。そこにあるのは、新しい(今までとは違う)という表現ではなく「美味しい」である。「まずく無い」では無いことはもはやお分かりの通り。

そして同じ事が、学校教育でも、街づくりにも言えるのではないかと思う。

2013年5月2日木曜日

土の臭いを嗅ぎながら野山を駆ける、まるで猪の気分になった一品

私たちは、「これは安全だよ」という食品を買って食べる事に慣れすぎている。

例えば、麹や味噌や納豆、ザワークラウト、パンもそうだね。こういった発酵食品を作って匂いをかがない人はいない。香りを楽しむと同時に、本能的に安全性も確認している。

 

料理を食べるときに匂いをかぐ仕草は行儀が悪いという見方がある一方で、ワインの楽しみとして香りのウエイトが大きいのも事実である。

私たちが動物である以上、食べ物の匂いをかぐという行為は、「安心して食べる」から始まって、様々な記憶や本能と結びついているに違いない。

 

料理に求められるのは単にいい匂いの料理というだけではなく、食べる人の記憶や創造力に訴えるフレーバーコーディネートではないかと思う。

胡椒の香り、スモーク臭、柑橘の香り・・。

盆栽を眺めて、深山に身を置く自分を想像したり、楽茶碗を手にして宇宙を感じるということと同じように、日本人は特に、食材から様々な記憶を辿る潜在能力が備わっているはずだ。

 

 

知人に連れられて毎年行くコゴミ採り。一年に一度たらふくいただく。

たっぷりあるコゴミの食べ方は、「さっと茹でたものをマヨネーズやマヨネーズ醤油で食べるのが一番美味しい。」と人もそう言うし私もそう思うが、やはりそれだけでは新鮮味に乏しい。

ここ数年の定番はコゴミパスタだろう。アルデンテに茹でたパスタにコゴミをたっぷり入れて食べる。味付けはアーリオ・オーリオでもいいし、バター醤油でも、アサリと昆布出汁でも。

 

そんななか、とりわけ昨日のコゴミは印象的だった。

知人からいただいたオリーブオイル。白トリュフの香りがするという。(Stefania Calugi - Condimento al gusto di Tartufo Bianco)

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「コゴミの温製サラダ」

 

塩を多めに入れて茹でたコゴミをサラダの水切りで思いっきり水を飛ばし、そこに塩を振って皿に盛り、このオリーブオイルをかけてみた。すると・・

濃厚なオリーブオイルとトリュフめいた強烈な香り、それに新鮮なコゴミのいかにもシダでちょっと土っぽい匂いとぬめりに加えて、

山菜採りでカヤの枯れ草の上をひたすら歩きながら、ポカポカと暖かくなってきた春の日差しを浴びて、草や土の蒸れたような匂い。やわらかな風に運ばれてくるホトトギスの鳴き声・・。

そんなものが一斉に湧きながら、まるで自分が豚か猪になって野山を嗅ぎあさっているような気分になったのである。

 

論より証拠とはよく言ったもので、料理に欲しいのはこんな発見なのだ。