2014年5月27日火曜日

今自分はどこに立っているか。地域の祝の宴席料理作りで

例えば日本料理とか、フランス料理とかに拘り、昔ながらの料理法や食材に囚われるがあまり、決めつけたものしか作ろうとしないとしたとしたらそれはプロとして怠慢な事だと思う。
出汁のとりかた、魚の捌き方、材料の組み合わせ・・。新しいものを取り入れる事ばかり先行して、食材や料理法、スタイルをとっかえひっかえにアレンジして気を引くだけの料理だったり、形や盛り付けを工夫するばかり中身とのバランスに欠く料理。これらは、頭が作ってしまった料理だ。

料理を食べるのは人で、食材は土から生まれてくる。
食べ物は美味しいものであって、その美味しさをどうやったらもっと引き寄せられるか。
それを料理と呼ぶのではないだろうか。
当たり前の事だが、旨いと感じさせるもので伏せ込んでしまった物は食べ物であっても料理では無い。料理の模造品と呼ぶべきか。

食べる行為は正にリアルで、過去の経験や記憶もひっくるめてその場所、その瞬間に身体と一体化するもので、そこにある殆どのものは「美味しい」という感覚に集約される。
どうやって料理されたか、何という料理か、一瞬のうちに吹き飛んでしまうほど、美味しくなければどんな工夫も意味を失ってしまう。

相撲や剣道が試合の始めに蹲踞(そんきょ)という姿勢をとるが、私は料理にとりその蹲踞にあたる部分が地域だと思う。
これからどんな試合運びをするか、心をリセットしてその瞬間からスタートするのである。地域のコアは自分だと思っている。自分と周囲との関係、そして何処までが地域かはそれぞれの持つ性格やアイデンティティによるものではないか。
広ければいいというものでも無いし、勝手に区切ってしまうものでもない。

学ぶこと、経験すること、挑戦すること、それぞれ大切な事だが、失ってならない事は今自分が何処に立って何によって生かされているか、生かされて来たかを感じる事である。
人や自然との関わりがあって、その土地の文化があって、その事を忘れて何の美も生まれてこない。
それが私のやりかたである。未熟で完成することなど有り得ない。
それは地域というものに限りが無いからだ。

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豆腐をウワミズザクラの塩漬けと生ハムで巻く

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弁当箱は北陸にご縁の方より受け継いだもの

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旬のもの、地元のものが全てではない

ゆかたはた・あざはた

新潟の海では決して採れない魚だって私の地域

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器を焼くところから料理に向かうことは表現の一つ