「子どもは天才」と大人は言う、確かに大人が見てドキッとする作品を作ったりする。
ではそれは子どもならではの発想で、大人になるとそれが退化したり乏しくなるものかな?と思う。
料理教室やモノ作りワークショップで私は、参加者に同じテーマを与え、様々な人がそのテーマに取り組む姿を目の当たりにする。
モノ作りはそもそもが発想が表に出る作品作りなのに対して、料理教室は食べる物を作るという概念(先入観)が先立つ点で少し差がある。
しかし、それにも囚われないのが子どもの発想だ。
子どもが交じりながらのクッキングワークショップ。子どもにとって素材は食べ物であっても粘土であっても、ひたすら思いのままに作る。
大人と違うのは、人に見られるという格好や、失敗を含めた完成度、作品を作りたいという姿勢に対する「自分縛り」が殆ど無いことだ。
あるとすれば、大人がそれを許さない時など・・。
アール・ブリュットという言葉がある。(Art Brut:生の芸術)
私は「自発的な表現行為」 と捉えた(アルネ小濁の表現活動)。自然に生まれてくる「作りたい、表現したい」という素直な行動を妨げない表現(物)ということだ。
ピザ生地を伸ばした子どもは、たまたま突っとがってしまった2つのハシを耳にして、チーズとトッピングで動物の絵を書き出す。
それを見た大人はアートだ。と言う。しかし10人に1人くらいの子どもは、いやもっと多いかな、ピザで顔を描き始めるのである。
2009年の仕事で、健常者と障害者が一緒に制作活動をし表現について学ぶワークショップを行った。
テーマは「妙高のいきもの」。
地元の土の採取から始まって、テーマから発想する作画、そして粘土による制作と進む。
この作品はその時最も印象に残った作品の一つ。障害を持つ大人が作った野焼きの作品だ。
輪積み(わづみ)という土器によく見られる制作方法によるもの。
私が作り方の一通りを説明した後に制作されたもので、「積んだ粘土紐は繋ぎ目をしっかりとつぶしてくっつけること」「細かい突起物は上からかぶさる薪や扱いの途中で壊れやすいため注意すること」などの注意事項は伝えてある。
注意の理由は、粘土造形における「輪積み技法」の基本(常識)と、野焼きの時に起きる破損のキケンを回避するためだ。
指導者は知らずのうちに「出来たものがまずいと言われないように」とか「壊れた時の責任」の回避や「出来なくてつまらなかった」から逃げる習慣がついている。上手くできるところから興味を伸ばすのだ、と考える場合もある。
人の言葉に妨げられないのが アール・ブリュットを生みだす人々なのかもしれない。
書は不思議な力で表現を加速させる。
文字という常識に、毛筆という不自由なインターフェースに、想像を深める墨の色が、光や影、強さ弱さ、しなやかさ激しさなどをより自然に導いてくれる。
これも障害を持つ大人の作品だ。
絶妙な間、絵画的なバランス、その表情の豊かさから土の匂いや花の色、山やそよ風すら感じさせてくれるようだ。
ふと気づく。
子どもの作ったお顔のピザを見てアートだ!と心を動かした者。
言われた事を無視して出来上がった土器に唖然とした者。
自由な文字を眺めて、いいなぁ〜と思った者こそ、自分に内在するものを感じ新たな表現を生む可能性を持ったクリエーターではないか?
大人は経験によって逃げる事や、恐れを身につける。
しかし同時に「悲しや嬉しさや感動を高めていく」ものだと思う。それも、それぞれが違った体験によるものだからより個性的、かつ人間として味わう喜怒哀楽という共通部分が根底にある。
多くの大人は経験により自分が上手に出来なかった事を認知し自分を評価している。それによって「自分には出来ないこと」「自分はやらないこと」を決定してしまう。いわゆる「自分縛り」。
正当化させ、理由作りが上手い、ある意味利口な者ほど都合よく自分を縛ってしまっていないだろうか。「表現不器用」になっては残念。そう思って欲しい。
私は思う。
年齢を重ねて、発想が退化するのではなく自分を縛っていくだけなのだ、と。なぜなら感性は経験によって深まるもののはずだからだ。
音楽でもスポーツでもアートでもなんでも・・素敵だなぁ、凄いなぁと感じた時が自分縛りを解くチャンス、表現の扉を開ける時ではないか。