以前に「古代人の暮らしを体験するために、出土した土器を真似て粘土で作り、野焼きで焼き、自ら育てた古代米を当時を再現してふかして食べよう」。というワークショップに関わった事がある。
一言で「拘る」と言うけれども、これはどんな価値があるのだろうと感じていた。
昔を再現したいと思っても、たかが思いつきや通りすがりのワークショップでは触り程度のものにしかならない。そもそも今は昔とは違う。
後に残るものは、その時に興味を持ったことをやれるだけやったという達成感と思い出だけかもしれない、と。
ワークショップの対象が子どもだった場合に、それを導く大人(コーチ)が外してはならないものは何か?としばしば考える。
あくまでワークの完成度なのか、子どもの発想の邪魔をしない許容力なのか。
思いもしなかった花を咲かせ、素晴らしい実を実らせること。それが最高のゴールだとしたら寂しさを感じてしまう。むしろ、いつ芽が出るかも解らない不思議の種のバトンを手渡し続けている。そう思ったほうがよほど夢がある。
「何を残すのか」・・感動の思い出か、いつか芽が出る種か、関わる大人は常に真剣だと思う。
私は、料理とは単なる食べ物とは別の意味を持っているものだと思っている。
一つは器だ。
ただ空腹を満たし栄養を補給して、ついでに旨ければばいい程度のものは料理と言いがたい。料理とは文化、言い換えればバランスのとれた「美」ではないか。
色、香り、盛り付け、旬、物語、いろいろな美感を持ち得た食べ物であっても器に品(らしさ)が無ければ台なしになる。
何れも知識、技術、経験、勘(センス)、個性が伴うものだろう。ゆえにパーフェクトなど有り得ないものなのかもしれない。
そして、とうとう自分で作った器に自分の料理を盛りつけたらどうなるか?と考えた子ども達に、私は何ができるのか。
本当に未熟さを感じてしまう。
「自分達で育てた米(華麗舞)でスィーツを作ろう」というテーマ。まずは子どもたちが管理している田んぼを視察する。
土や質感、また成形のテクニックより、絵による表現を提案。使い慣れない絵筆ではなく掻き落としを選ぶ
華麗舞は米粒が長い。リアルな痕跡を残すため、器の裏に子どもたちの田んぼの草や実際に育てた米の後を付けた
線に加えて塗りつぶしを生かすため80名分の道具を手作りする
本番は石膏型で作った6寸皿の見込みに白化粧、掻き落とし
子どもたちが考えた料理が食べ終わると、自分のアイディアが表れる。その味は果たして・・。