2016年1月27日水曜日

学校生活における給食は料理ではなく営みと言えるもの

日々世界中でつぶやかれる「おいしい!」。それっていろんな意味が含まれている。
おいしいと感じるのは人間の脳だけど、空腹を満たした。冷えた身体が暖まった。食感に驚いた。食材のストーリーに感動した。友達と一緒に食事ができて楽しかった。自家製の味噌が料理になって嬉しかった。・・・・味が好みに合ったというだけのおいしさではない。
昨日のことだった(2016年1月26日)、私は市内の小学校へお邪魔し、5年生が育てた米で作る料理レシピの試作会のお手伝いをした。
ピラフとチャーハンとカレーの3種類を作る。
午前9時30分、3クラス全員が集合して本日の目的や計画を共有した後、調理実習となる。
先生は全体の流れを見ながら授業を進めていく。生徒は4×3班に分かれ交代で下ごしらえと加熱調理を行う。作業の内容で出来上がり時間に差はあったものの、お昼前には無事出来上がった。
教室で試食となり、料理はこちら。
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手前からチキンカレー(これは単味のスパイスを調合するところから作った)、チャーハンのバリエーション1チーズのせ、チャーハンの2チーズ入り、ピラフ、チャーハンの3キムチ入り
どれが一番おいしかったか?というと、優劣がつけがたくどれもおいしい。料理の完成度やコストのもっと以前に、みんなで作った喜びがそこにあるからだろう。
では「みんな」って誰のことだろう?
私は米を作ったわけでもないし、レシピを考えたわけでもない、材料を買ってきたわけでもない。ただ試作の時間に、料理がちゃんとできて、少しでもおいしくなってきちんと後片付けをするようお手伝いをしただけ。それなのにちゃっかり「みんな」の仲間入りをしている。
そこで思う、この地球環境を守る一翼を担い、一次産業を支え、一消費者として日々を過ごしている。その社会構成に参加しているとしたら、世の中で作られている食べ物の中に不味い料理なんて無いのではないかと・・・。余談っぽくなってしまった。

米料理の試食会は給食へと続いたが、そこにも感動が待ち構えていた。
村シェフもどうぞ。ということで、私も予期せず給食をご馳走になることになった。
実を言うと料理が仕事になってから、学校給食のあり方について考える事がしばしばあった。一つは食器、あと一つは献立である。現状についてとやかく言いたいのではなく、自分が給食を食べていた当時を思い起こしながら、こうあるべきだ、のようなものが漠然とあって、そのためにも実際の給食を体験してみたいという願望があった。
リアルな体験をさせてもらえるチャンスが突然やってきたというわけだ。子どもたちの中にポツンと入って正に自分が子どもになった気持ちになって。これが興奮せずには居られない。
そしてここでも新たなおいしさと出会うことができた。
この大勢の仲間たちと食べる食事は楽しいの一言。今日のメニューはスコッチエッグとコルキャノン、ABCスープ、米粉パン、牛乳。給食週間の2日目というラッキーな日だったようだ。
『世界の味めぐり〜いろいろな国の料理・食文化を知ろう〜』イギリスの料理の日である。
しかしながら、これが本格的なイギリスシェフの味に近いのか、イギリス食文化を適切に伝えているかなど愚問である。
味付けは程よい薄味でどれも適切に調理されていたが、献立表を見てさらに感心した。季節や習慣を取り入れ、栄養の説明、カロリー、そしてテーマの説明まで。これって現代の給食では当たり前のことなんだろうか?
子どもたちがたいへん恵まれていると感じ、学習と食事を含めた学校生活というものにさらなる期待感を持つことができたこの日の経験に感謝の一言である。

なぜこれほどまで給食がおいしかったか。それは、午前中の学校生活を子どもたちと一緒に過ごしたからに違いない。私は半日、40年を遡って新井小学校生のように学舎での営みに参加していたからだろう。
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