2014年1月4日土曜日

村越惣次郎の思いは「消防」。人生の節目に見つけた祖父の生きざま

シーズンオフの身辺整理を気取って、過去2年間の仕事と市民活動10年で溜まった資料の整理をしながら新たなフォーマットを作っている。

新洋軒という店を閉店したのが2001年。なんぶルネサンスを創設したのが3年後の2004年、同時に市内の片田舎楡島の旧保育園でねおかんぱーにゅ南部を始める。
5年後の2009年小濁に拠点を持つ。それがアルネ小濁でキルンパークの建設が始まる。
平成25年度(現年度)は、なんぶルネサンス10周年になる。年齢で言えば10歳。私は50歳を迎えていたが、この年にスタートした「復興鈴」と「水と薪学園」はこれまでの活動の集大成だった。

10代=音楽、20代=料理、30代=コンピュータ、40代=やきもの・・10年周期の活動の変遷である。
やきものと並行した市民活動の10年間は世間の注目も大きかった。避けてあった新聞の切り抜きをファイリングするとおよそ100件になり、その他にテレビ等の取材や執筆もあるので、ならせば1ヶ月に一度はマスコミに取り上げてもらったことになる。

店をやっていいた頃は地方紙のグルメ取材はたまにあったが、さらに昔メディアの数も乏しい頃に撮ってもらった祖父のこの写真はさぞかし貴重だったに違いない。
子どもの私にはいつもこの笑顔を向けてくれていたが、職人気質の祖父はたいへん怖い親方だったらしい。

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祖父 村越惣次郎は、昭和47年(西暦1972年)の「広報あらい」の取材を受けていてその時の写真と聞いていたが、その原本を昨日の片付け中に発見し記事に目をとおすことができた。
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『消防ってのは私の生命でさぁ』 -- 村越 惣次郎さん(73)

火事のサイレンが鳴ると同時に店員も奥さんも走る。裏へ、座敷へ。あたふたと消防服を着終わる頃には、自転車も長靴も出勤準備完了。
「天皇陛下から勲章をいただくとき、感激して涙がでて困りました。古い人間なんでしょうか」
大正八年。徴兵検査で第二乙種合格「つまりお前は兵隊にはなれないということ」「肋膜でしたが、つらかったです。でも、戦争はいやでした。なんとか男としてやれる仕事はないか」と、男の名誉をかけて消防組へ入れてもらった。
バレンとトビ口で火を消す破壊消防から手あおりポンプへ。
蒸気ポンプは火事場へすっ飛ぶ道中、石炭をたいた。「南風に火の粉を飛ばしてね」。
静かな語りから手先が大きく揺れる。若い頃の血がうずくのか、パッパッパッとテンポの早い語りになってくる。
肉屋へ小僧奉公したこのが十四歳のとき。年俸十円也。二年後、洋食に魅せられて横浜へ。酒もたしなまず、馬車馬のようにかせいだ。
二十二歳のとき店をもった。「建物にペンキを塗ったら見物にきたほどです。トンカツ二十五銭、コーヒー五銭でした。」
ハイカラ青年は班長から副団長へ。新井の消防の歴史にずっとこの人の名がでてくる。
町役場にトラック一台しかない終戦直後「消防自動車がほしい」。男気がおさまらず駆け回って外車の払下げに成功。
やがてプロの常備消防部ができ、自動車も二台に。
消防署長になって近代消防の基礎を築いたこの人は最後にポツリ。「もし、私に賞をもらうとりえがあるならば、生涯を火事と取り組んできた生きた体験だけです」と。
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他界するおよそ1年前の記事だが、読み返してみると伝え聞く料理の腕前から想像する人物像とは別の顔「消防」にかける思いの強さを感じることができた。そして昨日、私の母親がポツンと言った言葉を思い出す。「洋一さんは最後は何をやるんだろう」。

昨年妙高市の消防団長に就任した私の義兄。本日消防団の出初式、季節外れの雨空も雪に変わってきました、ご苦労様です。